日本の自動車史 第1章 日本の自動車産業の夜明け(4)

このコラムでは、日本の自動車産業の歴史を、その当時の名車・歴史的に意義が大きい車に着目し、その車をめぐる経緯や歴史的背景、後世への意義を考え、日本の自動車産業を見直してみたいと思います。
第1章としては、20 世紀初頭から戦後間もない頃の日本に焦点を当て、黎明期の自動車産業と、現在の自動車メーカー誕生にまつわる話しを紹介します。今回が第1章の最終回です。

第4回 電気自動車とプリンス自動車のルーツ
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第4回は、プリンス自動車誕生の経緯と当時のヒット商品である電気自動車を、時代背景と絡めて紹介します。

今や、電気自動車と言っても誰も驚かないとは思いますが、戦後にも量産・販売していたと言うのをご存知の方は少ないのではないでしょうか。実は、戦後の燃料不足の中で誕生した電気自動車がありました。

戦時中「隼」や「疾風」といった戦闘機を生産していた立川飛行機は、戦後GHQ により軍需産業から撤退を余儀なくされ、下請で生産していた自動車製造技術を吸収し、自動車産業への転換を図りました。
当時慢性的燃料不足によりガソリンは GHQ に統制されていたため、電気自動車の開発に着手し、1947年には試作車を完成させます。
しかし、その後に立川飛行機が解体され、その自動車部門が独立して東京電気自動車となり、量産電気乗用車の完成に至ります。
府中にあった工場の地名にちなみ、「たま電気自動車」と名づけられ、発売しました。

初代「たま電気自動車」は、2ドア、4人乗りで、最高速度 35km/h、1 充電走行距離 65km でした。当時のガソリン不足から「たま電気自動車」はヒット商品となり、その後も改良車種を開発・発売しました。

1949年東京電気自動車はたま電気自動車に社名変更します。
しかし、1950年に朝鮮戦争が始まると、今度は鉛の価格が急騰し、電気自動車の生産が困難となりました。
そして、ガソリン乗用車の製造を手掛けることになりましたが、たま電気自動車にはガソリンエンジンの技術がなかったため、富士精密工業がエンジン設計を担当することになりました。
富士精密工業は、戦時中「零戦」のエンジンを製造していた中島飛行機(富士重工のルーツ)が財閥解体で分割されたうちの 1 社です。
こうして 1951年にはガソリンエンジンを搭載したトラックを開発し、社名もたま自動車となりました。
翌年にはガソリンエンジン乗用車を開発したが、この年 皇太子殿下の立太子礼を記念し、「プリンス」 AISH 型と名づけられ、社名もプリンス自動車工業となります。

その後プリンス自動車工業は 1954年に富士精密工業に吸収合併され、新富士精密工業となりますが、1961年、プリンス・スカイライン、プリンス・グロリアのイメージが定着したこともあり、再び社名がプリンス自動車工業 となりました。
さらにその後、たま自動車時代からの支援者であり、当時会長であった石橋正二郎氏(元ブリジストン会長)は、本業に専念するためプリンス自動車を手放すことを考え、1966年日産自動車に吸収されました。

誕生以来、20 世紀の自動車産業の主流であったガソリンエンジン乗用車ですが、50年以上前の日本にも、その流れが変わったかもしれない機会があったということは、感慨深いものがあります。モノづくりを追求し、新技術を模索、具現化する日本の製造業の精神は不変だと思います。
21 世紀の自動車産業の新たな流れも、日本が先導して欲しいと期待します。

<本條 聡>